ポテトナ

文章を書くのが苦手な人間のブログ

青春は時代によって違うのか【小説:西部戦線異状なし】の感想

映像の世紀」という番組が録画してあった。20世紀を貴重な映像資料で振り返るというNHKらしい番組で、その中で紹介されていたのが【小説:西部戦線異状なし】とその著者レマルクだった。紹介されていたといっても、ほんの10秒20秒触れられていただけだったけれど、なぜだか妙に惹きつけられた。

早速図書館で借りて、少しずつ少しずつ、一か月ほど経って読み終えた。面白い。この本は戦争を描いているので、面白いなんていうのは不謹慎かもしれないが、自分の知りたかったことが真正面から書かれていたという意味で大満足の一冊だった。

しかし、満足するだけでは終わらないで、この本の何に魅力を感じたのか自分のなかで整理したい、そして頭の隅にずっと残しておきたい、そんな気持ちが沸き上がった。

 

【小説:西部戦線異状なしは短い前書きから始まる。

『この書は訴へでもなければ、告白でもない積りだ。唯砲弾は逃れたが、戦争によって破壊された、ある時代の報告の試みに過ぎない筈である』ルマルク

ここから察するように著者エーリヒ・マリア・レマルクは従軍経験があり、それは第一次世界大戦であり、西部戦線だった。これは私にとって重要な事実で、第一次世界大戦でどのような化学兵器が使われたのかとか、各国の駆け引きが後の世界にどのように影響しているかとかよりも、前線の名も無き兵士たちが何を思って日々戦っていたのかが知りたかったのだ。

 

 この本の中には戦争の容赦のない場面が詰まっている。それと同じように『呑気』な場面も何回か訪れる。主人公で19歳のパウル・ボイメルはドイツ軍の志願兵で、同級の仲間や戦線で出会った老兵と共に、ときには川向うのフランス女と一夜を明かし、ときにはアヒルを盗んで丸焼きによだれを滴らせる。そして時には前線で人を刺し殺さざるを得なかった。ただどんな場面でも一貫して彼に影を落としたのは、『青春』という説明しがたいものであったように感じた。

それは私にとってとても意外な著者の『報告』だった。少しでも戦争を実感として知っている人ならば、もしかしたら容易に想像できたことかもしれないが、これまで私の中で『青春』という単語は、青臭くて自由でそれこそ後で振り返って笑える平和なイメージがあって、とても戦争と結びつかずにいた。しかし前線にいようと休暇で故郷に帰ろうと、パウルが思うのは失われた『青春』であった。

 

第1章より

『鉄青年か。鉄の青春か。僕等は一人としてまだ二十歳を越した者はいない。だが、若いといひ、青春といひ、そんなものは、もうとうの昔にのものになってしまった。僕達はもう年寄りに成ってしまったんだ』

第6章より

『たとえ僕等の青春の世界が、今再び僕らの手に与えられたとしても、僕等は今それをどうしたらいいかわかるまい。その青春がかつて僕らの心の中に与えた、あの軟らかな、秘密らしい力は、今は再び起こり得られまい』

第10章より

『僕等はまだ若い。二十歳の青年だ。けれどもこの人生から知りえたものは、絶望と死と不安と、深淵のごとき苦しみと全き無意味なる浅薄粗笨とが結びついたものとに過ぎない』

『青春』がなぜこんなにも大事なものなのか。命の危機にあっても焦がれるものなのか。その理由はパウルと同じ経験をしてみなければ実感しがたいことだと思う。理解をするのも難しいけれど、何とか、そこにこそ人間らしさが詰まっているようなきがした。

 

大して読書をしない私がこの本を最後まで読み切れたのは、原作もさることながら日本語訳の見事なところにあったと思う。大げさな言葉はなく、直訳という風も感じなかった。訳者は秦豊吉という人らしい。著者レマルクだけでなく、この人にも興味が沸いてきた。またこの本をもし戦争を知らない世代の翻訳家が訳したらどのように仕上がるのか…さらに戦時中の書物を読みたい、読むべきだと思わせる一冊だった。